【椿―tsubaki―2】
恋人――――市瀬春哉は誰もが息を呑むほどの美貌の持ち主で、かつては陰間(かげま)茶屋(男色を売る場所)で客をとっていた。
俺と春哉の出会いはその茶屋だった。俺は男も女もいける口で、当時馴染みだった女郎に金を無心されるようになって嫌気がさし、気分転換に男でも抱こうと入った茶屋で偶然相手をしてもらったのだ。
本来はそれきりの関係だったのだが、売れっ子の春哉が当時性質の悪い大店の主人にしつこく言い寄られ、大金をつまれて愛人になるように強要されていたことを知り、見るに見かねた茶屋の店主が、腕が立つと花街で有名だった俺に助けを求めたのがきっかけで、二人の距離が急速に縮まったのだ。
今では足を洗ったが、当時の俺は剣の腕にものをいわせて用心棒のまねごとをし、その日の食い扶持を稼いでいた。謝礼はいくらでもはずむと言われたが、俺が所望したのは春哉自身だった。店の売れっ子を所望されるとは思わなかった店主は頑として承知しなかったが、数日後、なぜか快く春哉を俺の元へよこしてきた。
それ以来、俺と春哉は同じ長屋で同じときを過ごしてきたのだが。
「何ですか?言えないようなことをしておられたのですか?」
「はい、女を抱いていました」なんて死んでも言えない。かといって下手に言い訳すれば勘のいい奴だ、すぐにばれる。
どうすればいいものかと思案していると、春哉はおもむろにため息をついた。そして俺の頬をそっと触ると、悲しげな表情で問うた。
「そんなに白粉を塗った女が好きですか?」
春哉はやはり見抜いていた。まあ、朝帰りする理由など他にないのも事実だが。
「……嫌いになるか?俺のことを」
つとめて冷静を装ってみる。が、ハタから見ればきっと滑稽な顔をしているのだろうな。
俺は春哉を傍に置くようになってからは女も男も抱かなかった。そういう店にも行かなくなったし、今まで馴染みだった男女ともすっぱり縁を切った。
今回の“浮気”はそれ以来の出来事だった。この春哉とは一つ屋根の下で共に住んでいるとはいえど、見世で相手をしてもらっていた頃からは一度も肌を合わせていない。それほど健全な付き合いをしていたのだ。正確にいえば俺が手を出そうものなら、春哉は家事の放棄をはじめ、下手をすれば俺を家から追い出しかねないほど機嫌が悪くなったりするからだが。
とにかく、ここしばらくご無沙汰だった俺は非常に飢えていた。正直、この際男でも女でも素人でも玄人でもかまわないからとりあえず抱きたかったのだが、それでもあくまで禁欲的な生活を続けようと努力していたのだ。春哉に操を立てた以上それはあたりまえのことだった。
それが昨日。飲み屋のツケを払いに行った際に偶然通りかかった花街の入り口。その門は一歩踏み入れば別世界が展開する。どこからともなく聞こえてくる艶めかしい嬌声、そして俺の理性を吹っ飛ばせたあの白粉の匂いが漂う“桃源郷”なのだ。
結局、何を言っても俺が悪いに決まっている。理性が本能に負けたのは、ひとえに俺の責任なのだから。そしてその代償として春哉を裏切った罪が重いことを改めて認識するはめになった。
「俺を捨てるなら捨てろ。お前にはそうする権利がある。俺なんかよりもっと羽振りのいい旦那衆のもとで幸せに暮らせばいいさ」
こうは言いながらも、内心俺は「春哉も案外心の狭い男だ」などと感じていた。浮気のひとつやふたつ男の甲斐性だと笑い飛ばせるくらいの度量の広さと、俺に対する信頼があったならば、これほど深刻な雰囲気にはならなかっただろうに。
……俺もつくづく勝手な男だな。
「……数馬さん、本気で言ってますか」
「お、おう、本気だ」
悲しげな春哉の声が罪悪感をかきたてた。もちろん本気じゃない。できるなら「もういいです」なんて言ってもらって元の鞘におさまりたい。
「……さようでございますか……」
うつむいた春哉はかすかに肩を震わせていた。消え入るように言ってから嗚咽らしい声が聞こえてくる。
「……あの時、私がどんな思いであなたと共に在ることを選んだとお思いですか?それくらい分かっていただけていたと思っておりましたが、どうやら見当違いでした。……では遠慮なく陰間として復帰させていただき、羽振りのよい旦那衆に抱かれてまいりましょう!」
春哉はキッと俺の顔を睨みつけ、土間の草履に足を差し入れ、戸を思いっきり開けた。すべりが良かったため、スパーンという乾いた音を立てて開く。
そこでもう一度俺の顔を薄く涙をにじませた瞳で睨みつけてから、乱れた足音を立てながら駆け出した。
まあ、数刻もすれば帰ってくるだろう。
そんな楽観的な俺の考えは、すぐに間違いだったと思い知らされることになるのだが。
